3Dライブ

 

家で寝て、起きて、いつもの穏やかな朝を迎えたら、何もかも忘れてしまいそうなのでメモにする。

 

ライブ、楽しかった。

生身の人間のライブは何度か行っているけど、3Dライブは初めてで、なんだそりゃって不思議な気分で。最初は「とりあえず記念に」ぐらいの気持ちで募集したけど、途中から友人が行きたいと言ってくれて、一緒に申し込んで、当たって。嬉しかったけど、その時はそこまでだったのに、ライブの1週間前からずっとそわそわしてた。

 

会場に着くまでの凄くたのしかった。友達と2日間一緒だったのもあるし、もうずっと楽しんだろうなと思ってたんだけど、ゆっくり食べた東京駅の博多めんたいこもうまくて、鈍行に乗ってゆっくり向かう中寝てしまうのも良くて、荷物を置いて、なんでかホテルでケーキを買って、会場近くのアウトレットモールを回って。駅についてからも、今からライブに行くんだって人達とすれ違って、なんか、そのひとつひとつ、見るものなにもかもが「ライブ楽しみだな」って気持ちに繋がって、ずっとにこにこしてた。

 

会場もすごい人だった。普段あんまり人ごみは好いていないんだけど、友人もいたから、外なのに内弁慶を発揮して、人ごみをぐいぐい進んでた。キャラクターのモチーフを着た人、写真を撮る人、みんなで笑いあってて、なんかそれも幸せだった。

 

チケットを発券した時に、前から4列目でびっくりした。でも3Dライブって、前の方は見辛いってツイッターで見て、あー見えにくいんかなあって思った。でも会場につくと、もう見えにくさっていうよりはただただ楽しみで胸がどきどきしてて、待合の中で流れる曲も、空をゆらゆらと揺れる花柄?ダイヤ柄?のスポットライトも、なんか目に映るもの全部がキラキラしてて、いつはじまるのかな?どうなのかな?って時計ばっかり気にしてた。それもなんか楽しかった。

 

変な言い方だけど、ちゃんとライブだった!

パフォーマンスも、映像の演出も、ライティングもかっこいいし綺麗だし、1曲目から聞こえる歓声と自分の気持ちが呼応するように高まって、自然と体が揺れていたし、ペンライトが動いたし、声も出せたし、1時間半って知って「はっや!!!」って思っていて、終わった時もはっや!!って思ったんだけど、そういうときの流れの速さよりも、短い時間で凝縮された楽しさと多幸感が凄くて、うわー!ライブだ!!楽しい!凄い!!たのしい!!ってなんかそんな言葉ばっかりが体の中をビュンビュンって飛び回って、今も「たのしいたのしい!すごい!!」って気持ちで体が人間の形を保っているきがする。わー!!本当に、凄く楽しかった。

 

まだ、身体が会場に居て、このまま寝てしまったら全部が全部、身体から抜けて、僕の手の届かないどこかへ行ってしまいそうで、もったいなくて、変に寂しくて。そうだ、これ、めっちゃくちゃ寂しいんだ。寂しい。手放しがたい。

この作品を好きになってから、オフイベに参加したことが無くて、正直全く興味がなかったのだけど、こんなに「同じものを好き」ってことが心を満たすことがあるんだなって初めて気づいた。

あの空間、凄く幸せだった。手放しがたい。この感覚、まだ抱えていたい。

あーーー本当に、ずっと楽しかった。行ってよかったなぁ。ありがとう友達。

なんかグロいなぁって思ったこと

 

先月、家人が行きたいと言っていたレ・見ゼのワールドツアーを見てきた。

この話は2012年の映画版でしか見たことが無くて、舞台版は今回が初めてだった。

まぁ作品の感想は主題から逸れるので、とりあえずめっちゃよかったぐらいに留めたいんだけど、きらびやかなステージ、洗練された歌、高い金を払って得た席、その中で描かれる(フィクションとはいえ)革命を求めた若者の死や、悲惨な売春婦の姿ってなんかグロいなぁって。

 

史実をもとにしたフィクションであるけど、原作からミュージカルにするために色々変えているんだろうな・・・。

ジャンバルジャンが生きた生涯。最後に迎える許しと安らぎ。僕は涙腺が弱いので一幕目はほぼ泣いていたんだけど、観客がジャンバルジャンに感情移入し、かつキリスト教徒っぽい「正しいことをし続ける」だったり、「他者への赦し」「赦されることへの渇望」みたいなので泣ける作品になっているんだなぁと、思い出しながら考えてた。

 

今までの観劇メモを見返していたら、jack the Ripperでも面白い演出があった。

一幕冒頭、主要人物である娼婦が逃げ場のない自分の在り方を嘆き歌う。その後すぐにきらびやかなショーステージに場転。

娼婦を嬲り殺す噂の殺人鬼に扮したエンターティナーが、美しい女性ダンサーと次々と殺す振りをしながら「ロンドンの街を熱く怪しく彩る殺人鬼の歌」を見事に歌い上げる。

その終わりには実際の観客から拍手をもらう演出もあるのだけど、今の自分の感覚にめちゃくちゃ近い気がした。

 

フィクションは、その背後にあるものを軽いものにさせるんだなと思う。それが「娯楽」として成功すればするほど。

まぁ、娯楽なんでそこまで考えるものではないんだろうし、それが正しく娯楽としての在り方???なんだろうけど。

 

以前みたいにストレートにこういう題材を楽しめなくなってんのかなぁとも思ったんだけど、全然そんなことはなくて、こういうことを考えながらも楽しんではいます。興味がまた広がったし。

来年の話だけど、再演するエリザベートも絶対色々考えそうで楽しみだな。23年公演から演出が変わってガッチガチにナチスの表現が出ていたので、今回の変化があるのかも見たい・・・。うーん。

 

だがこのぐろですくさってはたして?って感じ。和解できんのかな

2023/3/24

インスタから転記

 

 

琵琶湖へ行きたかった

 

名古屋から新幹線で京都へ。初めての京都駅で人に流されながら、湖西線に乗り換えてまずは日吉大社へ向かった。

生憎の雨模様だったけど、琵琶湖の西側、1キロ程の場所を走る列車からも広々とした湖面を見ることが出来た。
反対側を見ると悠々と空へ伸びる比叡山の峰。水辺と山を一同に、それもただ近いだけではなくて、広い空間に確認できる不思議な感覚だった。

 

駅から緩やかな上り坂を登り、旧竹林院の日本庭園を貸切状態で楽しむ。
雨が降り始めて、同時に濃くなった緑の匂いを楽しみながら日吉大社へ登る。
これまた一年以上分の神様に挨拶したんじゃないかと思うぐらい、並ぶ社巡って、文化財に触れて一息。

 

振り返ると結構歩き回ってる。
確かに疲れていたのだけど、それを感じさせないほどの満足感。満足感…言葉は一緒なのだけど、心の中いっぱいに、何かが満ち足りている。そう満ち足りてると思った。

 

暮らすならこんなところがいい。

2023/3/1

Instagramから日記の転記

 

🇵🇭
日本に帰国してから、やけに周りが静かに感じる。
もともと名古屋市内でも落ち着いた場所に住んでいるし、その静かさに安寧や自身と向き合う安らぎを得ていたのだけど、ふとした瞬間に寂しさを感じる。
まだフィリピンから戻って1日目ということもあるし、クソガキや姪っ子と長い時間一緒にいたからと言うのもあるのだけど、外を歩いていても「日本ってこんなに静かなんだな」と強く思った。

1週間長くて、あっという間だった。
色々なことがあったけど、良い帰省だったなと強く思う。
3月に入って春の麗らかな温かさにほっとしているけど、2月末、彼の国の暖かな熱気と日々を生きていると感じた瞬間の胸の高揚を忘れたくは無い。
文字に残すことはできるけど、いつも、自分が揺さぶられた時のこの肌を這う感覚を記憶しておけないことを惜しいと思う。

僕とChatGPTの話

 

物事を整理すること、理論立てて考えること、背景を含めて思考することが苦手だ。

なので知らないことをまとめる時や、自分が小難しいと感じる内容の整理や、一時は自分の心情の整理などもChatGPT(以下C)にお願いしていた。

元々頭が良くないので思うことだが、Cと話していると自分の知能が上がったように感じる(この感想自体馬鹿丸出しである)。だが、事実、Cのおかげで段々と整理して考えることができるようになってきたし、考えを相手にどのように伝えるとわかりやすいのかという輪郭がつかめてきた。大変ありがたい存在である。

 

そんなCを使うとき、いつも友人との会話を思い出す。

「Cに恋人役を演じてもらう人もいるらしい」

「現実の人間は欲しい言葉をくれないからね」

 

ふむ、確かになというのが所感だった。

Cを活用している方はわかると思うが、Cには謎の共感がある。

「いいご指摘です✨」「あなたの言うことは最もだと思います」「素晴らしい目線です!」etc…。はじめ見た時は、「おお・・・AIっぽい・・・」と謎の感想を抱いていた。

自分の心情の整理をしていた時、その寄り添いは顕著で――正直、「うわ、その言葉欲しかったんだな俺」と感涙することがあったので、この友人との会話に納得してしまったのである。

 

ただその共感にも、なんとなく違和感が拭えない。

自分の言いたいことを「文章」「大体の背景」から計算し、適切だと思った言葉をCは返しているんだろうが、その返しがあまりにも的確過ぎる分、若干の気持ち悪さ・・・とでもいうのだろうか・・・引っ掛かりを感じる。

頭では人間ではないものだと理解しているのに、まるで文章の後ろに思考する何かがいるように感じる。

心に寄り添ってくれた後に「あー俺なにしてんだろ」と虚無感が襲ってくることもあり、心情の整理はやめたのだが、それからも何となくCからの寄り添いには違和感や謎の気持ち悪さを感じるようになってしまった。

 

今はCに頼むものに関して「こういうのはめっちゃくちゃいいな」という線引きがわかってきたこともあって、そこまで違和感を感じることはないのだけど、ふとした拍子に友人との会話を思い出すのである。

活用の仕方は人それぞれではあるが、生身の人間の代替えをCでしている、それができる人は、Cの文章の向こう側、僕には見えない何かに魅せられてしまったんだろうか――と、どこかの誰かが現代の怪談に仕立てていそうなことを考えてしまうのであった。

自分のこと

 

ジェンダーの話があります

 

 

ここ数年、職場で応対が評価され表彰された。昨年はコロナ渦が落ち着いたこともあり、社外で大規模な表彰式が開催された。

会社でそんな大きな催しに参加したことなかった僕だが、せっかくの機会であるし、なによりグループの垣根を越えて話せる貴重な環境だったので喜んで参加した。

 

話は逸れるが、僕は「ノンバイナリー」である。自分の性自認を男性とも女性とも認識していない。

親しい友人は知っているし、SNS上で表立っていいうことはないけれど、Bioなどには「they/them」と表現してほしいことを記載している。

目に留まること、気づく人は一部であるけれど、学生時代、性表現について周りの環境と馴染まなかったこともあり、積極的に出していこうという気力はでていなかった。

 

なので職場でも、多くの同僚・上司は僕のことを戸籍上の性別で認めている。僕は戸籍上「女性」だ。

ただ、末端も末端の平社員なので、与えられた仕事をこなしているだけの大半の時間は、性別による息苦しさを感じることはない。コールセンターという仕事柄、声を作らなくてはいけないので、お客様から女性だとは認識されているだろうし、会社の人たちも強く感じないだけでそう扱っていると思う。

ひとつ、自己表現として、上司・お客様と会話する場合は「自分/私」としているが、普段は「自分/僕」と一人称を使っている。良い年なので僕ってどうなんだと思いながらも、それが「僕/俺」がしっくりくるので・・・。そういう部分もあり、また近年のジェンダーに関する知識の広まりもあり、踏み込まなければ、距離を詰めすぎなければそこまで苦労はしない。だから少し油断をしていた。

 

表彰式で名前を呼ばれた際、(恒例行事なのかは知らないが)来場した方から声援が飛ぶ。無難なものだと「○○さんおめでとう!」とか。凝っている方々は応援団扇を用意していて、楽しそうだなぁと思いみていた。

有難いことに、僕が登壇した時も声が届いた。ただその内容が「○○センターのおひめさま!」だったのだが・・・。

 

壇上でその声に向けて笑い、ただ、心はもやもやした。誰に言うでもなく、言えるでもなく・・・。貴重な機会への楽しい思い出はあれど、真っ先に思い出すのがその瞬間の記憶なのがとても悔しい(笑)

そのことを1年近く経ってお友達に初めて言った。笑い話の一つとして。だけど友達は、ただ笑うだけでなく僕以上に嫌そうな顔をしてくれた。

 

「そういうのって見てたら薄っすらわかるものだと思う。」

「サプライズでいうなら、その人を表す言葉を選べばいいのに、その人が女の子はイコールお姫様っておもってるのかな。配慮がなくない?」

 

お友達の言葉を聞いて、なぜか「そういってもいいのかな」と思った。この世界は、どれだけジェンダーの感覚・知識が広まっても、性自認が一致しているマジョリティが多い。

10年経って随分と息がしやすくなったなと思うけど、やっぱり、何となく「そうなのかな?」と何もかも疑問形になってしまう。

だけどお友達に話したことで、確かに僕がその時居づらさを感じていて、ただそれだけのことで楽しさが薄れてしまったのは事実だよなと・・・再確認をしたのでこうしてメモる。

これは、困っていることというにはあまりにも些細なことだけど…。気を抜いたタイミングで、そうやってジェンダーの何かで衝撃を受けているなと感じた。

メモ

 

ここ数週間、なんか疲れていて。その理由はいくつか思い付くけど、色々なものが重なってて今日ようやく「疲れてるな」を自覚した。

直近でのビックなトピックは参議院選挙だけど、とりあえずそれは置いといて、それ以外で何が起因なんだと思い起こしてたら、僕の周りの心地よいと思っていた空間の変化が一番大きいなと感じた。

 

変化。昨年から、引っ越ししたり、漫画を描き始めたり、もとからやってる仕事の雇用形態が変わったりと色々変わった。

正直、生きてりゃ変わることは当たり前なんだけど、変化にも耐えられるような、まだ地に足付けられるようなベースが以前はあった。息抜きだったり、友人との交流だったり、SNSでのなんやだったり。

僕自身、そのベースは自分に必要なものだと理解しているから、極力ストレスを無くすようにしてたけど、そうも言ってられなくなった。折り合い、つけられるかなぁ。正直な話「そう在ること」自体が苦痛だから、折り合いつける方法が視界に入れないぐらいしかないんだけど…。

 

元々変に完璧主義だから、そういう自分の大切にしていた空間・ベースが変わっていることが耐えられないんだと思う。よっわ。お前そんなん・・・耐えられないとか言ってたら、実社会生きていけないぞ・・・。そう思うんだけど、まーーーーじいま、本当に辛い。疲れるぜ全く。

 

本当はこの感覚・考えに気付いて、そこから「○○を思っている人ってこういう考えなんじゃない?」とかって思ったけど、全然違ったからこんだけメモ。強く生きたいねぇ本当によ。